グイノ神父の説教



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             年間第2主日 A年   2020119日   グイノ・ジェラール神父

                    イサヤ49,35-6  1コリント 1,1-3  ヨハネ1,29-34

 今日の聖書の朗読によると、イエスは「神の子」、「神のしもべ」、「神の小羊」、「世の光」と呼ばれています。洗礼の恵みによって、イエスに結ばれ「母の胎内」の時から神に知られている私たちも「神の子」、「神のしもべ」、「世の光」、「キリストの教会」、「聖なる者」と呼ばれています。

 「神の小羊」であるイエスが「世の罪を取り除いた」ので、私たちは聖なる者となりました。ところで、「世の罪」とは何でしょうか。この言葉は、日常生活の社会的、家庭的、経済的、身体的、その他あらゆる分野において暴力を発揮することを示します。世の罪は、人間の自己の利益や自己満足の楽しみが目的とされるところで大活躍します。そして、貧しさ、飢え、戦争、病気、災いが全人類に害をもたらすところで「世の罪」は働いています。人が生きるために必要な井戸を掘ることや疫病と戦うこと、あるいは大自然を守ることよりも、人を殺す武器を作るためにお金が使われている場所で「世の罪」は生き生きと働いています。あらゆる不正や差別や人類に対する罪の前で無関心、沈黙、無活動のところでも「世の罪」は活発に働きます。

 モーセの時代に、エジプト人の奴隷であったヘブライ人の家のドアに塗った小羊の血は、彼らに自由と約束の地、そして神との慈しみの契約を与えました。十字架上で流された「神の小羊」であるイエスの血は、私たちを罪と死の支配から解放し、私たちを天国に入らせる神との永遠の愛の契約を与えました。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエスのうちに洗礼者ヨハネは神ご自身を見分けました。私たちの内に神の似姿を与え、私たちを傷つけるすべての悪いものと世の罪の奴隷とするものを背負うために神は来られました。それは私たちに「神の子になる資格」(参照:ヨハネ1,12)と神の子の美しい輝きを取り戻すためでした。屠られた神の小羊であるイエスだけが「巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方である」(黙示録5,1-15)ことを、ヨハネの黙示録は書き記しています。この巻物は全人類に襲ってくる災いと様々な不幸を語っています。結局この巻物は十字架上で流されたキリストの血によってあがなわれた全人類の救いの歴史を語っています。

 世の罪を取り除くイエスは、ご自分の代わりに聖霊の賜物を私たちに与えられました。「愛する父として」神を見ることを聖霊は教えます。また「私たちは神の目には重んじられ、神はわたしたちの力となられた」(参照:イザヤ49,5 フランシスコ会訳)のです。

 このミサの中で「世の罪を取り除く神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」という司祭の招きを聞くでしょう。ですから、私たちを救い、解放し、養い、聖とするキリストの御体であるご聖体を愛と感謝の内にいただきましょう。ご聖体の拝領によって、私たちはキリストと一致し、キリストの体となるからです。「神の子」「神のしもべ」、「キリストの教会」「世の光」「聖なる者」としてキリストと親密に結ばれている私たちは、すべての人(全人類)の救いを父なる神に願いましょう。アーメン。



         年間第3主日 A年  2020126日  グイノ・ジェラール神父

          イザヤ 8,23-9,3  1コリント 1,10-1317  マタイ 4,12-23

 イエスの宣教活動の始めは、洗礼者ヨハネのやり方に似ています。彼らは同じ言葉を語ります。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、福音を宣べ伝え始めました。また自分の所に来た人々に、イエスも洗礼者ヨハネと同じように「回心の洗礼」を授けます(参照:ヨハネ3,22-26)。しかし、イエスと洗礼者ヨハネの間には決定的な大きな違いがありました。

  先ず、洗礼者ヨハネはイスラエルの南、ユダヤ地方の砂漠を流れるヨルダン川のほとりにじっと留まっていました。彼の弟子たちもその傍に留まります。ヨハネの洗礼を受ける人々は皆イスラエル人であり、自分たちの村から出て、砂漠の暑さを耐え忍んでヨハネのところに来ました。それに対して、イエスはイスラエルの北、ガリラヤ地方の異邦人の国々の近くで活動していました。そしてこのガリラヤという地方は、ファリサイ人や律法学者、サドカイの人々に非常に軽蔑されていた所でした。イエスは人々と出会うために、彼らの村を訪れます。「イエスはガリラヤ中を回っている」と聖マタイは証ししています。

  イエスは会堂で教えるよりも大自然の中で人々を集め、教え、時々ある人に自分に従うように呼びかけます。初めはひとりで教えていましたが、やがて数人の選ばれた弟子たちと共にガリラヤを巡り歩きました。マタイの家は弟子たちの安らぎの場となり、あちらこちらの村に最短距離で移動する必要があり、ガリラヤ湖を渡るためにペトロとヤコブとヨハネの船はとても便利でした。

 大勢の人々、特に病気の人、体の不自由な人が自分と接するためにもみくちゃにされる事をイエスは快く承諾します。フィリザイ人やユダヤ教の先生と違って、イエスは不潔な者、出会わない方がいいと言われた罪人や異邦人を歓迎し、その人たちと一緒に食事をします。イエスは人々に教えるだけではなく、彼らを癒し、慰め、赦し、救います。

  洗礼者ヨハネは、厳しい律法を実践し、群衆の前でヘロデ王の姦通の罪を告発したので殺されました。イエスは安息日を破り、律法の清さの定めによって異邦人とユダヤ人を区別する掟を無視し、また人を区別や差別をせずに罪人、病者、女や子供を歓迎したので死刑の宣告を受けました。「わたしは安息日の主である」(参照:マタイ12,8)と宣言したイエスは同時に「わたしは道であり、真理であり、命である」(参照:ヨハネ14,6)とも言いました。真理は固定されたもの、変わらないものではなく、生きている人です。イエスは私たちを動かそうとしている「命の道」です。キリストの弟子となることは、教会のカテキズムや伝統的な習慣や信念に懲り固まる事ではありません。キリストに従う人は、日ごとに神の言葉に生かされて、周りの人々を照らし、助け、癒しと慰めをもたらすために、イエスと共に歩む人です。

  ペトロやアンドレ、ヤコブやヨハネに倣って、私たちもイエスのそばを歩くこと、イエスの教えで自分を養うこと、世の救いのためにイエスのうちに、イエスによってすべてを行なうことを恐れてはいけません。イエスにおいて私たちは「世の光」となります(参照:マタイ5, 14)。神の光が人々の内に入ることが出来るように、私たちの信仰生活もその人々に対して受け入れ易い招きでなければなりません。ですから、イエスと共にイザヤの預言を実践しましょう。「暗闇に住む者は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と。イエスの時代のガリラヤのように、今の私たちの時代も暗闇に覆われています。イエスとしっかりと一致することによって、私たちも住んでいる場所を照らす「大きな光」となるに違いありません。アーメン。


              年間第5主日 A年   2020年2月9日  グイノ・ジェラール神父

               イザヤ 58,7-19       1 コリント2,1-5      マタイ 5,13-16

「あなたがたは世の光である」とイエスは強く主張します。そして「わたしたちの光が曙のように射し出で、真昼のようになる」ように預言者イザヤは願っています。この言い方はきっと奇妙に受け取れるでしょう。しかし、私たちが神の似姿に作られたことを思い起こすと、すべてが明らかになります。神は光なので、当然私たちも光り輝く者です。「私たちの信仰が人間の知恵にではなく、神の力にもとづいている」(参照:1コリント2,5 フランシスコ訳)ことを証明するために私たちは世の暗闇を照らす使命を受けています。

  自分の風味を出すと塩味は消えます。同時に救いの喜びを与える私たちの信仰は、人々の自由を強制しません。聖パウロに倣って、私たちも謙遜に目立たず、衰弱していても、恐れに取りつかれてひどく不安でも、神の救いの神秘を述べ伝えるべきです。多過ぎる塩は、食べ物を塩辛くしてしまいます。同じように強い光は眩しくて、目をくらませます。私たちの信仰の証しの力は、聖霊の力から来るのです。私たちが神の似姿に造られた意味は、神は父・子・霊として、私たちの心の奥に住んでおられるという意味です。父なる神は光であり、御子であるイエスはみ言葉であり、聖霊は人を清め、人に神ご自身の風味を与える塩であるからです。

「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのですから(参照:コロサイ3,3)、静かに、謙遜に信仰の証しをするように召されています。しかしこの慎み深さを皆が見えるようにしなければなりません。それに対してイエスは忠告しました。「役に立たない塩と升の下に置かれたランプは神の救いを妨げる邪魔する物です。福音宣教は決してやかましい宣言や征服することではありません。しかし救いの良い知らせが、はっきり見え、はっきり聞こえるものでなければなりません。

 分ち合いと助け合いの行いによって、また慰めと赦しの言葉によって、私たちは福音の風味と光を伝えることが簡単にできます。「人々は私たちの良い行いを見るように」努める必要があるとイエスは教えています。預言者イザヤも同じことを勧めていました。「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親の世話をしなさい。そうすればあなたの光は暁のように、真昼のようになる」と。

 日本ではキリスト者が非常に少ないです。だからこそ「粉に混ぜて、全体が膨れるパン種になって」(参照:マタイ13,33)この世に神の救いと光のメッセージを与えることができます。確かに、三位一体の神の似姿に造られたので、私たちは決して一人ぼっちのキリスト者ではありません。皆が一緒に共同体的に、キリストの体と魂になって兄弟姉妹として生きながら、私たちが信仰の証しを人々に与えましょう。もし、私たちが自分のように隣人を愛するなら必ず世界の人々は「神をあがめるようになり」、暗闇から光へ移ることができます。

 塩であっても光であっても「神の恵みによって今日の私たちがあるのです」(参照:1コリント15,10)成功しても失敗しても、慰めがあってもなくても、私たちは自分のためにも他の人々のためにも、神の恵みの賜物です。私たちは皆互いに、地の塩、世の光、神の貴重な賜物と祝福です。ですから、三位一体の神が、父・子・聖霊として、私たちの内に自由に働けるように承諾しましょう。そうすれば、もはや、私たちは風によって消え失せる弱いともし火ではなく、むしろ、この世に神の風味を与え、神の栄光を輝かす光の子どもとなるでしょう。アーメン。


           年間第6主日  A年   2020216日  グイノ・ジェラール神父

                シラ書15,15-20     1コリント2,6-10    マタイ5,17-37

 「その意志さえあれば、お前は掟を守ることができる」。すなわち、受け継いだ信仰に対して忠実であることはとても大切だと知恵のあるシラは教えています。信仰に成熟した人々の内に神の知恵があると聖パウロは断言します。小さな物事に対して忠実であることをイエスは勧めています。なぜなら、神が与えた十戒を守るために、つまり殺意や姦通の罪や偽りの誓いを防ぐことが出来るように、先ず実行しやすいことを行なう練習が必要ですから。例えば、自分の眼差しを変化させることや、自分の言葉と行いに対して注意深くなることです。

 イエスは優しく、友情をもって私たちが聖なる者となるように誘っています。「まず行って兄弟と仲直りしなさい」、「あなたをつまずかせる目をえぐり出して捨ててしまいなさい」、「あなたが言う『然りと否が』そうであるようにしなさい」と。イエスは人間の弱さと傾きを良くご存知ですので、私たちがたやすく歩く道を提案します。私たちがやさしい動作と行い、清い眼差しと真実の言葉を選ぶようにイエスは大いに勧めます。これこそが人々と共に仲良く生きるために必要不可欠な平和と調和(ハーモニー)をもたらすからです。それ無しには、社会的な生活は終りのない戦いとなり、自分を守るか、相手を攻撃して相手と戦う以外の方法はありません。

 イエスの優しい教えは、人を自分の心の中心に導きます。聖パウロが見事に言われたように「私たちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊“は一切のことを、神の深みさえも究めます」(参照:1コリント2,10)と。確かに神の恵みによって「望めば私たちが神の掟を守ることが出来る」と、シラは思い起こさせました。生きることは、善と悪、命と死、幸福と不幸の間で選択することです。モーセがイスラエルの民に与えた律法も、イエスの弟子たちが私たちに伝えたキリストの教えも、標識設置された安全なコースを示しています。このコースから離れると、迷い、命を失う危険性が大きいです。

  イエスの教えは自由への招きであります。イエスが来られる前には、モーセの律法は「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」(参照:使徒15,10)でしたと、聖ペトロは大勢の人の前で認めました。イエスのお陰で神の掟は命と自由と聖性への道となりました。

 結局、私たちの間にある人間関係を良くすることによって、私たちが神の国に入るようにイエスはすべての人を誘います。和解、赦し、慈しみが私たちの人生をあらゆる面で潤すはずです。世の救いのために、新たにされた私たちの人生は絶え間ない祈りとならなければなりません。私たちが持つ弱さと犯した罪にも拘らず、私たちがイエスの教えに従ってイエスの生き方を真似るなら、必ず神の国に近寄るのです。そこでは終わりのない、遥かに人の理解を超えている大きな幸せが私たちを待っています。アーメン。



       年間7主日 A年  2020223日  グイノ・ジェラール神父

レビ記 19,1-217-18   1 コリント 3,16-23   マタイ 5,38-48

「天の父が完全であられるように、私たちも完全なものとなる」ことをイエスは私たちに勧めています。「父なる神をご覧になってください」とイエスは招きます。「神はご自分を愛さない人々も愛してくださるから。神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。見よ、神は人を罰しません、神は絶対に復讐しません」と。色々な具体的な態度を模範として見せながら、イエスは「許可、あるいは禁止する法律」から「愛を土台とする自由」へと私たちを導こうとします。私たちが考えていることに反して、イエスの教えは責任を取ることと自分自身の良心に従うことを真剣に求しています。

昔からレビ記の本は復讐する気持ちを捨てて、愛と慈しみをもって、神を真似ることの大切さを示していました。そこでイエスは、旧約聖書の教えの本当の意味を表しました。それは愛と慈しみによって生きることです。私たちの内に留まる神の神秘を再発見するように聖パウロは呼びかけています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と。私たちを聖霊によって生かされた神の子とするために、神はご自分の御子イエスを遣わされたことを聖パウロは思い起こさせます。「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と、聖パウロは説明します。

「私たちの主、神は聖なる者」「神は完全なもの」なので、私たちも聖なる者、完全な者となる必要がありますが、それは私たちには無理なことだと思われるかもかりません。しかし罪人のためにご自分の命を捨てられたイエスの模範がそれを可能にました。イエスは、決して何も反応せずにすべてを耐え偲ぶことを教えていません。いつでも、どこでも、私たちに対して暴力を使って服や金や物を奪う人がいることを私たちは良く知っています。悪い人、敵である人は、ずっとその状態に留まるにしても、それは彼らの問題です。しかし、私たちは彼らのために祈り、彼らを愛するようにと、イエスははっきりと教えています。なぜなら、愛は必ず悪に打ち勝つからです。

私たちが自由な人となることを望むなら、神とイエスを真似る必要があります。「見えない神の姿である」(参照:コロサイ1,15)イエスは、神について語り、神の愛し方、差別をしない慈しみを教えます。受難の時に、自分を平手で打った下役の人にイエスは他の頬を向けませんでした。むしろ「なぜわたしを打つのか」(参照:ヨハネ18,22-23)と言って、イエスはその人が責任を取り、自分の良心に従って行なうことを教えただけです。「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(参照:マタイ5,5)とイエスは言いました。愛と慈しみがたっぷり染み込んだ私たちの振る舞いによって、すべてを新たにする神の愛に満ちた柔和をもたらすことが出来るように、めましょう。

 わたしたちは無意識に自分の権利を一生懸命守るように頑張っているので、もう一度イエスの教えを聞き直すことが必要です。私たちを囲んでいる悪にも拘らず、聖霊の力に覆われて、イエスの愛に強められ、「神が完全であられるように」私たちも信頼と自由をもつ完全な人となりましょう。

 愛することによって自分の幸せを見つけましょう。いつか、私たちも幼いイエスの聖テレジアのように言えるでしょう。「私はすべてを与えましたので、軽く走ることができます。私は何もありません。私の唯一の豊かさとは『永遠に愛する』ことです」と。アーメン。



       年間第12主日  A 年  2020621日   グイノ・ジェラール神父

             エレミヤ 20,10-13    ローマ 5,12-15    マタイ10,26-33

 洗礼を受けた私たちは神の子になりました。この恵みによって自分たちの周りに神とキリストの教会の聖性を現し、また私たちの自由を現すことができるのです。聖霊の賜物が私たちに与えられたので、私たちは自由です。そういう訳でイエスは今日3回繰り返して「恐れるな」と言い、私たちを納得させようとします。

 神について語ることも、自分の信仰を示すことも簡単なことではないことをイエスはよく知っています。自由に自分の信仰証しが出来る人も、励ましや好意的な待遇受けるよりも、むしろ預言者エレミヤのように、あざけりや無理解、あるいは迫害の的になってしまいます。公にイエスについて話すこと、あるいは自分がキリスト者だと打ち明けることはとても勇気が必要です。

 人々を恐れないことをイエスは一生懸命に勧めています。彼らが私たちに損害を与えても、決して神の手から私たちを奪うことができません(参照:ヨハネ10,28)。また、彼らは私たちの心にある永遠の命への希望を破壊することはできません。迫害される人たちは、迫害する人たちよりもまさっています。拷問される人は、拷問で暴力を振るう人よりも偉大です。

 殺された人は、殺す人よりもまさっています。イエスは「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とはっきり宣言します。私たちは何も恐れることはありません。なぜなら、神を信頼している私たちは昼も夜も、愛をもって、きちんと私たちを守っている神の内に置かれているからです。自由な信仰生活を送ることが出来るのは、神の揺るぎない愛があるからです。


 私たちは「光の子」となったからこそ、自分の弱さを見つめ、信仰の足りなさを認め、福音を伝える使命から逃げることをめましょう。私たちの弱さを通して、神はご自分の力を現すからです。「わたしは弱いときにこそ強いです」(参照:2コリント12,10)と聖パウロは体験して言いました。ですから、どれほど神が私たちを愛しているかを理解しましょう。神が私たちに要求することは何であるかを知るように努めましょう。そして神に揺るぎない愛と終わりのない慈しみを絶えず感謝しましょう。 神に祈ることがあっても、なくても、神について度々考え、神の眼差しの下に生きることを大切にしましょう。なぜなら、このやり方で私たちが神の愛と保護を体験し、神がずっと私たちの世話をすることも知るようになるからです。さらに、日常生活の試練や人々の侮辱に直面する時、心の中で次のように神に打ち明けましょう。「主よ、私は真心からあなたを信じます。あなたの傍にいる私は何も恐れません。あなたこそが私の救いと希望です」と。

 恐れるべきことはただ一つだけです。それは私たちの魂を殺すことが出来るものです。実際の危険とは、自分がキリスト者であることを隠すこと神とキリストの教会に属していることの証を否定することです。私たちをおびやかしている本当の危険とは世間的な考えに流され、何も考えず、自分のことだけを大切にする生き方をすることです。

 イエスは私たちを救うために、私たちと共にいること、そばに留まることを約束した(参照:エレミヤ1,8)ので、恐れてはいけません。たくさんの雀よりもまさっている私たちは、遥かに神の目には尊い者です。神はそれをずっと繰り返して言っています。「恐れてはならない。わたしはお前をあがなったからです。わたしはお前をお前の名をもって呼んだ。お前はわたしのもの。…お前はわたしの目に尊く、重んじられる。わたしはお前を愛するから」(参照:フランシスコ訳 イザヤ43,143,4)。神が私たち一人ひとりに言われたことを、固く信じ、神の愛が与える力で宣言しましょう。力と永遠の命である神の愛が、聖霊によって私たちの心にとめどなく豊かに注がれている(参照:ロ−マ5,5)ことを忘れないようにしましょう。アーメン。



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